国引神話の真実

 出雲国風土記には、その冒頭に「国引き神話」が載っている。八束水臣津野命(やつかみずおみづののみこと)が、西は志羅紀(しらき)の三埼(みさき)から、東は高志(こし)の三埼から、河船で国をひいてきて出雲の国をつくったという壮大な話だ。

調べてみると、これは時間的にも壮大な話であった。縄文時代から数千年にわたる伝承であると考えられる。


かつて、縄文海進という時代があった。気温が数度高く海水準が3mから10m高かったという報告がある。気温が上がると極地の氷が解け、海水準があがる。

たとえば関東では東京湾が栃木あたりまで入り込み、房総半島がまるで島のようになった。今から7000年から4500年前のこと、6000年前ころが海進のピークだった。食糧も豊富で縄文文化が栄え、青森県の三内丸山(5500~4000年前)で大規模な集落が営まれた時代である。

縄文海進時代の島根半島は、ズバリ4つの小島に分かれていた。島根半島には3本の低地帯(谷状地帯)があって、それによって4つの島に隔てられていた。地形図・標高線を見れば、どこからどこが島であったかがわかる。


西の(日御碕)から東の(美保関)に向かって、
順次
1 日御碕から平田・ウップルイを結ぶ低地帯まで(出雲
 北山の山塊)
2 ついで松江市・恵曇の佐陀川ラインまで
3 次に嵩山・和久羅山の山塊。(これは島根半島を南北
 に分けるラインではなく、東西のラインつまり西川津町
 から本庄町辺りを結ぶ低地帯がある)
4 佐陀川ラインから美保関までの一体の山塊が一島をな
 す。

やがて縄文海進が去り、寒冷化が進行し海水面が下がると、四つの小島はせりあがり、ついには合体して島根半島に成長した。

出雲国風土記の国引き神話は、八束水臣津野命が、4回に分けて、新羅の国や越の国から土地を引き寄せてきたという神話に過ぎないが、だがこの神話には島根半島の自然史が潜んでいた。実際に起きた物語を、出雲世界のひとびとが見聞した自然史を伝承してきたものに他ならなかった。

風土記が書かれたのは733年。縄文海進時代との時間の隔たりは4000年前後と推定される。文字のない時代、語り伝えだけが文化の継承を可能にした時代であった。縄文人の、夜ごと繰り返される焚火の場での家族の談笑場面が目に浮かぶ。地質現象は語りの中で人格化され、神の技ともなった。出雲の国引き神話とは縄文人が伝えてきた神話なのである。

風土記は4回の国引きのうち、3つ目を「宇波の折絶えより闇見の国」。4つ目を「三穂の碕」と記載しているが、解説者によれば、「宇波の折絶」は不明(「出雲国風土記」荻原千鶴・講談社学術文庫)、あるいは稲積の誤り(「出雲国風土記参究」加藤義成・今井書店)等と解説されている。つまり3回目と4回目の国引きの島の位置がよくわかっていないようである。

だが、地形と縄文海進を考慮すれば、おのずと四島の位置は明らかである。風土記では3つ目を「闇見の国」と言っているが、まさに嵩山のふもとにはいまでも闇見神社が残っており、この嵩山の山塊こそが闇見国とされていたあかしであろう。2013.11.19)



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  by windyspace | 2015-04-17 23:45

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