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縄文の船

古代出雲歴史博物館に 子持ち壺が展示されていた。
親壺の上部に4つの子壺。出雲市の鹿蔵山遺跡出土、8世紀とあった。特徴的なのはその色彩、鮮やかな三色だった。なぜか撮影禁止。写真を撮ったくらいなんてことはなかろう。禁止はストロボだけでよいと思われるのに、いかが。ここらが官僚的だと思った。

木製の船の遺物の展示が目を引いた。5mはあろうか。これなら何人ものれそう。益田市沖手遺跡出土、紀元前1400~1100とあった。
さらに松江市夫手遺跡出土の櫂が展示されており、こちらはなんと紀元前6000年と標記されていた。標記に従えば 8000年前のこの櫂は 青森の三内丸山や中国江南のカボト遺跡をはるかにさかのぼる。

古代人はすこぶる冒険心と移動心の強い 魅力的な民であったのだろう。ちょっと憧れる・・
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  by windyspace | 2015-04-19 04:40

上海近郊にあそぶ

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  by windyspace | 2015-04-17 23:53

国引神話の真実

 出雲国風土記には、その冒頭に「国引き神話」が載っている。八束水臣津野命(やつかみずおみづののみこと)が、西は志羅紀(しらき)の三埼(みさき)から、東は高志(こし)の三埼から、河船で国をひいてきて出雲の国をつくったという壮大な話だ。

調べてみると、これは時間的にも壮大な話であった。縄文時代から数千年にわたる伝承であると考えられる。


かつて、縄文海進という時代があった。気温が数度高く海水準が3mから10m高かったという報告がある。気温が上がると極地の氷が解け、海水準があがる。

たとえば関東では東京湾が栃木あたりまで入り込み、房総半島がまるで島のようになった。今から7000年から4500年前のこと、6000年前ころが海進のピークだった。食糧も豊富で縄文文化が栄え、青森県の三内丸山(5500~4000年前)で大規模な集落が営まれた時代である。

縄文海進時代の島根半島は、ズバリ4つの小島に分かれていた。島根半島には3本の低地帯(谷状地帯)があって、それによって4つの島に隔てられていた。地形図・標高線を見れば、どこからどこが島であったかがわかる。


西の(日御碕)から東の(美保関)に向かって、
順次
1 日御碕から平田・ウップルイを結ぶ低地帯まで(出雲
 北山の山塊)
2 ついで松江市・恵曇の佐陀川ラインまで
3 次に嵩山・和久羅山の山塊。(これは島根半島を南北
 に分けるラインではなく、東西のラインつまり西川津町
 から本庄町辺りを結ぶ低地帯がある)
4 佐陀川ラインから美保関までの一体の山塊が一島をな
 す。

やがて縄文海進が去り、寒冷化が進行し海水面が下がると、四つの小島はせりあがり、ついには合体して島根半島に成長した。

出雲国風土記の国引き神話は、八束水臣津野命が、4回に分けて、新羅の国や越の国から土地を引き寄せてきたという神話に過ぎないが、だがこの神話には島根半島の自然史が潜んでいた。実際に起きた物語を、出雲世界のひとびとが見聞した自然史を伝承してきたものに他ならなかった。

風土記が書かれたのは733年。縄文海進時代との時間の隔たりは4000年前後と推定される。文字のない時代、語り伝えだけが文化の継承を可能にした時代であった。縄文人の、夜ごと繰り返される焚火の場での家族の談笑場面が目に浮かぶ。地質現象は語りの中で人格化され、神の技ともなった。出雲の国引き神話とは縄文人が伝えてきた神話なのである。

風土記は4回の国引きのうち、3つ目を「宇波の折絶えより闇見の国」。4つ目を「三穂の碕」と記載しているが、解説者によれば、「宇波の折絶」は不明(「出雲国風土記」荻原千鶴・講談社学術文庫)、あるいは稲積の誤り(「出雲国風土記参究」加藤義成・今井書店)等と解説されている。つまり3回目と4回目の国引きの島の位置がよくわかっていないようである。

だが、地形と縄文海進を考慮すれば、おのずと四島の位置は明らかである。風土記では3つ目を「闇見の国」と言っているが、まさに嵩山のふもとにはいまでも闇見神社が残っており、この嵩山の山塊こそが闇見国とされていたあかしであろう。2013.11.19)



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  by windyspace | 2015-04-17 23:45

子持壺

子持壺という風変りな形の土器がある。大きな壺の上に小さな壺が4~6個くらい乗っかっている。まるで子供の遊びのようだ。生活上の実用品とは考えにくい。

島根県立風土記の丘に展示されている。同所発行の冊子によれば、子持壺は装飾付須恵器とされ、5世紀に出現し、6世紀から7世紀にかけピークをむかえ、8世紀に古墳の終焉とともに姿を消す。全国各地の古墳とりわけ西日本において出土する。出雲型、畿内型があり、吉備地方のものは人物像なども乗っかっている。

出雲型の特徴は親壺・子壺の底がないこととされる。地域的な特色で島根郷型、意宇型(今の松江市周辺)、能義型にわけられ、次第に意宇型に統一され、また意宇型は出雲西部(いまの出雲市周辺)にも広がっていくという。

奇異な土器だけに、記憶に残っていたが、この3月中国に旅行して杭州と上海の博物館を見て回ったのだが、ナント両博物館にそれぞれこの子持壺そっくりさんが展示されていた。大きな壺の上に子壺がいくつも乗っかっているではないか。いずれも後漢(AD25~220)の中期の出土品とされていた。中国の呉越と日本の民族的文化的つながりは想像以上に深そうだ。
 (杭州博物館)

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(上海博物館)

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  by windyspace | 2015-04-12 22:33

今日も桜

竹林に孤桜
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桜の小道
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  by windyspace | 2015-04-09 21:33

さくら桜さくら

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  by windyspace | 2015-04-08 22:24

お久しぶり


堀川遊覧花の巻(高校のクラス同窓会の企画)

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画角14mmのフルサイズ
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  by windyspace | 2015-04-08 17:29

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